2008年5月16日金曜日

polka:003 情熱とスキルと腹芸と。

「原毛」?? ググってみました。原材料としての毛でしたね。つい腹芸と関係ある毛のことかな、とワケわからん想像をして混乱してしまいました。(ニットデザイナーと腹芸師との接点があったらあったでスゴいかも。)

コアですね、「原毛」。グーグルで2位に来てます。ヤフーは他の要素が絡みそうで1枚目には表示されていませんでしたが、グーグルの211000件中2位というのは、かなりスゴいです。



原毛家さんのサイトを拝見しましたが、アフィリ系に共通するものを感じます。もっとも、アフィこてこてサイトよりは遙かにキレイにお作りになっていますが、「いいもの教えてあげたい!」の強い意志が各ページから伝わってくるようです。コンテンツの数もハンパないですね。どれくらいの期間、更新されてきたのでしょうね。

atricotさんのページも拝見しました。途中段階も見せていただいていましたが、文章主体のシンプルな造り。白バを思いっきり取ってるところなどは、ライターさんらしいな、と感心しつつ、魂が込められているのを感じます。(大阪で言う、すきもんやな〜、ですね)

WEBの画面構成を考えるとき、紙と違って、額縁になるべき端があるようでないようで、「全体」を見せにくい点が、実制作時に毎回考えさせられるところです。と、話がボケそうなので、「情熱」と「スキル」の関係にもどります。



情熱はスキルを凌駕する。全くその通りだと思います。情熱オンリーだとオッケーですが、スキルオンリーな世界はあまり見たくありません。近づきたくありません。また情熱オンリーに近い状態でできた画は、そこにわずかでも整理(デザイン)の手を加えると、カタチの持つ意味が変わってしまい、せっかくのパワーが、著しく損なわれるのもよくわかります。

その判断基準って、刺身や冷や奴の味の良し悪しを感じることのできる、日本人独特なものと関係あるのかしらん、とも思いつつ。



ウチの真ん中の子は、時々オっと思うような線で人の絵を描いてくれますが、当たり前だけど、3歳のときと今の6歳では、線が違うのですよね。変化することが普遍の真理であるのなら、過去の一瞬の出来事だけをとりあげる、なんてことはナンセンスなのでしょうけれど、あの荒々しいタッチをもう一度描いてくれ〜 と、ついつい欲してしまいます。



情熱も時とともに、いやらしさが加わっていきますよね。
だから、
純粋に近い計算が秘められた情熱、ってのが、深イイのかなと思ってます。

そうそう、PTA新聞の第一回目の編集会議は明日です。予定通り嫁さんが行ってくれるのですが、ひょっとすると、嵐を呼んでしまうかも。です。

2008年5月15日木曜日

luis:003 情熱は、スキルをきっと凌駕する

さて、産業功労賞絡みの仕事がようやく終わりました。
表彰状って、表彰の価値が高いほど手書きになる確率は高くなりますが、そこは予算との兼ね合いですわな。オール手書きだと、百貨店に持ち込んで、1枚1000円ってところでしょうか。産業功労賞クラスだと、名前のところだけ手書きにして、本文はDTPですな。

PTA新聞は、やっぱ、本腰入れてやるならすべてを背負い込む覚悟でやらんとダメでしょうが、もちろんそんな割にあわんことはやれないでしょうから、裏からこっそり、わからんように、やりたいことを徐々に、ってかんじなんでしょうね。
オレも一般家庭の奥さん相手にタダ仕事をすることがありますが、デザイン的な整理をちょっとしてあげるだけでも、こちらがビックリするくらい喜んでくれますよ。

ただ、こちらがやってあげる、だけだといいんですが、共同作業の場合は、相手にもそれなりのことをしてもらわないとダメなので、そこらへんでPTA新聞は、メンバーのやる気を問われる場面があるだろうし、しんどいところですな。

情熱(意思)とスキルって、パラレルの関係だと、思うのですね。

やりたいことのベクトルが明確でなければ、いくらスキルがあっても、それは実を結びませんな。
逆に、意思も情熱もあっても、スキルがなければ、それは表現されないわけで。

このあたり、両輪が上手くまわってくれたら言うことはないのだけれども、そうもいかないことも、もちろんままあって。

で、ここ数年ずーっと感じているのは、情熱はスキルを凌駕するんではないか?ということなのですよ。

サイトのリニューアルを依頼されたとき、ま、それまでのサイトはオーナーさんご自身が手探りでつくっていて、それだと見栄えが悪いからデザイン的な処理をして見栄えのいいものにしてほしい、なんて依頼がままあるのだけれども、そこには、ぎゅうぎゅうに情熱が詰まっている場合が、多いのですね。

そのほとばしるような情熱がね、そこからはじゅうぶんに見てとれるのですよ。それが、デザイン的な処理、つまり「整理」ってことですけど、整理されていないからこそ、余計に、情熱が伝わってきます。これをね、整理しちゃうと、情熱が伝わりにくくなるなあ、と、感じることが、ままありますね。

さて、今回、相方さんのサイトがめでたくリニューアルオープンになりました。
なかなかの情熱となかなかのスキルが詰め込まれた、まずまず満足出来るサイトと相成りました。

http://atricot.jp/

ところでですね、相方さんと昵懇にしている日本でおそらくは唯一であろう「原毛家」のポンタさんがご自身で手がけているサイトが、こちら。
情熱がスキルを凌駕している好例です。

http://www.spinhouse-ponta.com/

2008年5月7日水曜日

polka:002 PTA新聞には、デザインよりディレクション。

書き文字の表彰状って、未だにあるんでしょうか? いや、あるんでしょうが、DTPにどれくらい置き換わっているんでしょう? さて、表彰状といえば、20代前半に、印刷会社の工務として鶴橋あたりの書き文字屋さんにドサっと原稿渡して、差し入れしたおまんじゅうを一緒に食べたことを思い出します。(そういえば、差し入れ用は三色団子とかだったから、春先だったような)

一文字間違えては、全紙書き直し、で、何度も行き来していましたが、卒業生全員書ききるまで、集中力がよく途切れへんな、と思ったものです。(いや、よく考えてみれば、集中力がとぎれるから間違えてはったんでしょうね)

PTAは、難しくなりそうです。一度目の打ち合わせで妻が出席したのですが、誌面の何分の一かの割り当てしかなく、分業制もきっちりとられ、レイアウト作業も集合で行うような... 当然といえば当然ですが、誰がデザインする、なんてのはないような感じです。

たいくつ気味なPTA新聞に、デザイン革命を起こそうかと思っていて、小学校に通う子供達にお父さんの作品! を見せたるでー と意気込み、家庭訪問時には「ぜひ、お願いします」と先生に期待されてしまいましたが...。

現場は、和気藹々に作業が進めば、今まで通りで何ら問題はなく、むしろ1匹オオカミ的なプロが入ると、余計に混乱を招くことでしょう。もし強行すれば、全てを背負い込みそうで、来年以降を考えると無責任なことにもなりかねぬ。などと、トーンダウンしています。

他の委員さんのテンションをあげたり、少しずつ全体的な意識のボトムアップを図る、ディレクター的な地道な努力が集団作業においては求められるのでしょうね。でも、プロのデザイナーでも、集団になると、まとめるのが難しいのに(あんまりそのきもないやろな、の)素人さんに対して、導くなんてとんでもない。(最初からわかってたはずなのに、あんまり深く考えていませんでした。浅はか!)

結局、ゴーストデザイナーとして黒子に徹するように、妻よりクギをさされてしまいました。(打ち合わせも基本、妻が行く予定になってしまいました)が、それでも何か「色」を出してチョけてしまうだろうな、とデザイナーな自分は思います。

luis:002 PTA新聞とよく似た仕事

PTA新聞ですか〜。
ジャンルはちと違うのですが、こちらは、この時期、春の叙勲が発表され、産業界、文化界ほかさまざまな分野から勲章が授与される季節、その下部表彰である産業功労賞に伴う仕事があるのですね。

勲○等なんていう国歌褒章はそれこそ国が仕切っているのでオレのところにまわってくる仕事も知れているのですが、業界団体や役所に出入りして仕事をしていると、その下部表彰である産業功労賞にまつわる仕事がね、この時期、舞い込んできます。

祝賀会が開かれるんですけど、その際のパンフをつくったり、表彰状をつくったりと、なんやかんやとこまごました仕事が、周辺に散らばってるんですわ。

ところがですな、これが毎度毎度、なかなかめんどくさいですねん。。。

業界団体は、そこに属している企業の社長さんがメンバーなのですが、団体理事や役員でなくても、皆さん、自社に帰れば一国一城の主、口うるさい人もいれば上からモノを言う人もいたり、文句だけの人がいたり…、まあ、さまざまなのですが、めんどくさい人が多いのは事実で(笑)

表彰状ひとつつくるだけでも、句点の位置からフォントの大きさまで、いろんなことを言うてきはりますわ。それも、ひとりふたりでなく、あちこちから、それもなんの配慮もなく、気まぐれ的なものまであり(笑)

つくる作業よりも、はっきりいって、そのあたりの苦情みたいなもんを処理していくことに腐心しているほうが、多いです。

まあ、それも編集作業の一環といってしまえばそれまでなのですが、オレ、単なる下請けやし(笑)

PTA新聞の編集会議ですか。。。
デザイナーとして参画するよりも、クリエイティブ・ディレクターとして参画することのほうが、仕事量としては多そうですな。
PTAの役員なんざ、断りきれずに嫌々引き受けただけのまったくやる気のない人と、学校教育を真剣に憂えている人の2派にわかれるんでしょうな。
ディレクションの肝は「管理」にあって、「人の管理」「時間の管理」「おカネの管理」「品質の管理」が柱になっていると思うのですが、一番腐心するのは、「人の管理」でしょうな。
やる気のない人に、やってもらわねばならない仕事をやってもらう、他人の仕事に無遠慮に批判を差し挟ませないようにする…、そのあたりのことを、風を受け流す柳のごとき柔らかさでこなしていかんとあかんのやろな、と、想像してみたりするのですが、こっちも業界団体の仕事を抱えているゆえ、他人事のような気がせんですな。

2008年4月22日火曜日

polka:001 PTA新聞とは、何だろう。

最近は児童数の減少もあって、必ず1年は役を引き受けなくてはならないそうで、小学四年になるウチの子のPTAとして、文化委員に立候補したら、すんなり当選(?)しました。この文化委員、PTA広報誌をつくるのが主な役割のようで、年に8回ほど集まって編集会議をするとのこと。日頃Macでデーテーピーしてる自分にとってPTA新聞、どないしたろかな。などと思いを巡らしています。
リソグラフで回すのだろうか? 何ポイントまで文字がつぶれないのだろうか? 写真は1色チラシのようにハイコントラストがやっぱりよいのか? など、まだ1回目の集まりも迎えない今から、多分、PTA新聞をaiやps使って作るのって、大阪で初かも、などと、なんとなくソワソワ。
良く目にしてきた、どちらかといえば、「あー、あるよねー。でもあんまりみないよねー」な、この媒体に、この1年は悪戦苦闘するのかもしれません。

2008年4月13日日曜日

luis:001 師匠のこと

性格でもあるし、いろんなことをチャッチャと決めていかんとあかん立場でもあるので、考えることはあっても悩むことって、オレにはほとんどありません。
また、グレーのままにしておいても一向に差し支えのないものは、そのままグレーにしておける図々しさも、オレは持ち併せています。

でも、ほとんどないけど、たまに、どうしていいのかわからんときがあります。

支払いの前日にゼニが全然ない!なんてのもかなりかなりキツいですが、それはもうなるようにしかならん!と開き直ることが出来るので、まあ、いいです。

選択肢を並べてどれにしようかと考えられてるうちは、全然大丈夫です。
でも、ときどき、選択肢すら浮かばないときがあって、ほんまにね、どうしていいのかわからなくて、途方に暮れるときがあります。

といっても、最終的にはなんらかの決断を下しているんですが、それが正しい決断だったのかどうか、確信が持てないときがね、一番不安になります。

正しいか間違っているかは結果論なので、結果は割り切れるんですが、決断したときに、それが正しい!と確信が持てるかどうかが、オレの場合、かなり重要で。
確信が持てたら猛スピードで進めるけれども、確信が持てなかったら、上手くいくことも上手くいかなくなります。
根拠はなくてもいいのですが、確信が持てる!という手応えは、オレにとっては、やっぱり、かなりかなり重要なことです。

決断するときって、合理的に解答を導きだすか、合理的じゃないけれどもこれで行きたい!って結論を出すかしかないと思うのですが、そのときに、根拠などなくてもいいから、確信を持っていたいのですね。でないと、その後が、とてもしんどい。

だから、誰かに、それでいいんだよ!と言ってもらいたいときも、あります。

でも、
誰もね、それは正しいから大丈夫!とか、間違ってるからやめときな!って言ってくれないんですよ。

自分で気づかずに間違ってる方向に進んでいたとき、身体を張ってそれをとめてくれる人は、もういません。
真剣に怒ってくれる人も、もういません。

なにかを決断するときに、
そのことを思い知らされるときがたまにあって、えも言われぬ不安に陥ります。
ぽっかりと空いてしまった穴は、全然埋まってないんだなあ、と、呆然とします。


26歳のときに、師匠に出会いました。

師匠は、当時、大阪でも1、2位の大きさを誇る家具屋さんの社長で、いろんな団体の会長職や理事長職を兼任していて、保護司なんかのボランティアもされていて、まあ、大阪の経済界の超偉いさんでした。オレが知り合ったときは、たしか63歳でした。オレは密かに、会長職コレクターと呼んでましたが(笑)

ヤクザみたいな風貌のでっかいオヤジで、実際にヤクザとケンカして勝って帰ってくるようなやんちゃなオヤジでしたが、笑顔がとんでもなく素敵でね、人がいっぱい集まってくるような、それでいて気取りがまったくない人でしたわ。

お店やお店の裏にあるオフィスも立派なんですけど、自分がいつも仕事してる社長室は、離れのバラックみたいなところです。で、むかしの人なので、もったいないが染み付いていて、自分の机やら来客用のソファやら応接テーブルやらは、ぜーんぶ、売れ残った自分ところの商品でまかなっていてですね、傷ものだったり不良品だったり修理に失敗したやつやったり…、テーブルとか脚がガタガタ言ってるし、ボロボロですねん。おまけにエアコンを設置してないので、夏は扇風機、冬は電気ストーブ。
そこにね、大阪経済界の偉いさんが詣でてるという(笑) そのへん、まーったく飾らん人でした。
スーツには金をかけてましたけれども、そりゃ、いい年ですからね(笑)

で、保護司もやってはったんで、毎朝、人相の悪いヤンチャそうなのが数人、社長室のまえにいてるんですよ。少年院やら刑務所やらを仮出所してきた人たちの面倒を見てるんですが、毎日、顔出させてね、いろいろ報告させてましたわ。そういう人らが社長室に出入りするのも、全然おかまいなしの人でした。

瞬間湯沸かし器で激情家なのですが、情に厚くて、器が大きいというか、とにかく、いろんな人が集まってきてました。もう、カリスマでしたね。偉ぶったところなんて全然なかったけれども、一瞥しただけで、エラい人!ってオーラが出ていて、とにかくね、それこそいろんな大人を見てきましたけれども、この社長以上の大人って、今もって見たことないです。

この社長にね、オレは育てられたんです。
26歳のとき、チラシでもDMでもパンフレットでもなんでもいいから!って飛び込みで営業に行って、なにを見られたのかわかんないですけど、一発で気に入られて、それも、おまえみたいな生意気なやつは見たことない!って気に入られかたで、それから10年以上、かわいがってもらいました。

飛び込みの営業だったけれども、もちろん事前にいろいろと調べていってて、御社がこれまで出してきた広告は出来が悪すぎる!どこの業者とお付き合いされてるのか知らないけれども、オレやったらもっと安い金額でもっとデカいリターンが期待出来る広告戦略を出せます!って営業してましたから、そら生意気やったはずです(笑) オレ、なんでそんな物言いで営業してたんやろか?(笑)

結局、そのときは広告がもらえなかったんですが、しばらくして、飯食わしたるから来い!とお誘いがありまして、出かけていったら、ご自宅に招かれての奥さんの手料理でした。
で、オレは今もむかしもこんなんですから、仕事の話は抜きにして、笑わせるだけ笑わせて、ごはん、いただけるだけいただいて、美味しい美味しい!って食べまくってたんです。
そしたら、奥さんに、いたく気に入られてしまいまして…。
あとで、聞いたんですが、どうやらこれは試験やったらしく、社長は、奥さんが気に入った人間はひいきにするらしいのですよ。でも、奥さんはなかなか若い人を気に入るなんてことはなくて、なんか、オレは奥さんの眼鏡にかなったらしいのですね。ほら、オレは今もむかしも熟女キラーだから☆(笑)

そんなこんなで、まずは奥さんから、奥さんが通っている日本画の展示会のパンフ、民謡教室のパンフ、地元の町会の婦人部の会報誌と、ごっそりお仕事をいただくことに相成り、そっからお付き合いがはじまっていきました。

ちょうどこの頃、社長は、社長職を息子に譲って、ご自分は会長になられました。だからお店の実質的な経営は息子の社長に移り、オレはこの社長とはそりが合わなかったこともあって、仕事はもらうものの、上手いこといかへんかったことが多かったんですが…。

まあ、仕事のことはいいです。
社長、基、会長、つまりオレの師匠のことです。
オレはもともとがあまり相談をしない人間なのですが、そらわからんことは知っている人になんぼでも教えてもらいますけれども、自分で決めなあかんことは、あんまり相談をしない人間なんです。

会長にも特になにも相談しなかったんですが、会長経由で、家具の業界団体から仕事をいただくようになり、家具業界のことなんてなにも知らなかったので、そのあたりのことはちょくちょく教えてもらいにいってました。
そんときオレは、名刺に、自分の名前と連絡先しか書いてなかったんですが、会長に、役職をちゃんと書け、と。
そりゃ、2人だけど従業員もいたし、社長っちゃ社長ですけど、社長だから仕事がもらえてるわけじゃなし、オレ個人を買ってもらって仕事をもらいたい!って思ってましたから、役職名なんてつけてなかったんですよ。そんなの、かっこわるいと思ってましたから。
でも、つけろ、と。
それがついてるだけで、相手の待遇が変わって、仕事がやりやすくなるし、営業に行っても応対してくれる人間の種類が変わるから、と。

世話になってるし、せっかくオレのことを思っていってくれてるんだから、イヤだったけど、言うとおりにしたんですね。
そしたら、です。会長が言ったように、仕事が全然しやすくなりましてね。
それから、いろんな相談をするようになりました。

その当時のオレは、モノをつくるということについては、いっぱしのスキルがあって、そのスキルのレベルは今とあんまり変わってないと思います。モノヅクリのスキルについては、オレはその時点で完成されていたように思います。
でも、それ以外の、たとえば経営であったり、営業の仕方であったり、交渉の仕方であったり…、そーゆーことがまだ、全然ダメでした。
そこを、会長に、よく相談してましたわ。

そうこうするうちにね、帳簿を見てやるから、毎日持ってこい!と、そういうことになって、オレ、毎朝、人相の悪い連中と一緒に、朝っぱらから帳簿をまえにして、会長のお説教ですよ。
毎朝です、毎朝。朝、お客さんのところに行かなきゃならなくて、行かなかったら、電話がかかってきましたから。んで、その時間は、どこにも行かずに、オレのところに来い!と。

出来ないところがいっぱいあってね、ほんと、よく怒られました。
毎日毎朝、怒られに行ってたようなもんですよ。
まだ営業力が自分になくて、ときどき値引きをしてたんですけど、それは帳簿を見ればわかりますから、値引きするたびにメチャクチャ怒られました。値段を落としたら誰でも仕事はとれるんだから、そんなのは営業でもなんでもない、おまえを信用してもらって仕事をもらってるんじゃなくて、安いから仕事もらってるだけ!ってね。

オレは会長の息子でも社員でもなんでもないけれども、毎日毎朝ね、猛烈な勢いで怒られてました。
怒られるのはすごい怖くて憂鬱だったけれども、赤の他人にこんだけ怒ってくれる人なんて、いません。
怒るのにどれほどのエネルギーを使うのかということが後になってわかるにつれ、こんだけ怒ってもらってありがたいなあ、って、思うようになりました。

お金がなくて困ってたときでも、一銭も貸してくれませんでした。でもその代わりに、銀行から融資を受ける方法を教えてもらいました。銀行との付き合いかた、税務の処理の仕方、利益の確保の仕方、人件の管理の仕方…、オレは広告業で会長は家具販売業で、業種が違うからやりかたはそれなりに微妙に違うんですけど、でも、言われたことは、盲目的に、受け入れてましたね。もう、なんでもいうことを信じて聞いてみよう、って。

当時、会長から教えられたことで、それは絶対に違う!って今でも思うことがあるんですけれども、でも、今でもそれは、違うと思いながらも、会長の言ったことを守っていることがあります。
赤の他人のオレのために、あれほど親切に熱心にモノを教えてくれた会長が言うことだから、間違ってると思ったことでも、そのとおりにしよう!って、決めたんです。
ひとつだけあるんですけど、でもそれは、会長が言ったことだから、オレは、間違ってると思いながらも、言われるままにずーっとやっていこうと、今でも思ってます。

いろんな人に会わせてもらいましたよ。
偉いさんだから、会長室にいるだけでいろんな偉いさんが訪ねてくるし、宴会がしょっちゅうだったから、よくお供させてもらってました。
行く先々で、オレの息子や!って紹介されて、こそばゆいやらなんやらで(笑)
会長に、オレの息子や!って認定された人は、じつはたくさんいてるんですが、オレが最後の息子でした。
ちなみに、娘も多いですよ。演歌歌手で、紅白の常連のような人が、たくさん、会長の娘さんになってます。
ほいで、オレの息子や!って紹介してくれるんですけど、会わせてくれる人はみんな雲の上の人ばっかりで、官庁のトップやったり上場企業のトップやったり、はっきりいって、そんな人に会わせてもらっても、エラすぎてオレの仕事には結びついていかないんですね(笑)
でも、愚直なまでに、次から次へといろんな人に紹介してもらいました。だから、オレの名刺ホルダーには、とんでもない人の名刺がたーくさん詰まってます(笑)

あるとき、会長に、そんなに紹介ばっかりしてもらわんでもよろし、と言うたことがあります。
そしたら、
おまえはその年代で頑張ってるけど、コネがないやろ。でも、ひとりで出来ることって限界があってな、そっから上に行くには、誰かが引っ張りあげてやらなあかんねん、と言われました。
オレ、引っぱりあげてもらってたんですわ。
会長が何十年とかかってつくってきたコネクションを、そのまんまオレに紹介してくれました。
26歳の小僧の手をとってね、こいつはオレのお墨付きやから使ってやってくれ!って、言ってまわってくれるんですよ。どんだけ嬉しかったことか。。。

そこにはなんの打算もなかったし、ただただ愛情だけがあって、なんの見返りも求められなかったです。
あ、酒の相手はよくさせられましたけれども(笑)
国歌褒章を会長がいただいたときは、しおりのパンフレットを、もちろん無料でつくらせてもらいました。そんなん、お金なんかとれません。というか、タダでオレにつくらせてくれ!ってかんじですよ。

4年前に、会長は亡くなりました。社葬と密葬がべつべつに行なわれて、奥さんから密葬に呼んでもらいました。もう、ほんまに家族みたいにして、お付き合いさせてもらいました。

10年ほどのお付き合いで、怒られるだけ怒られて、ほんまにね、いろんなことを教わり、相談し、大切ないろんなことをもらいましたよ。全部、オレの財産です。オレは今、その財産で食ってます。

会長に親子のように接してもらったことはオレのかけがえのない財産だし、誇りでもあるし、自慢でもあるけれども、ちょっと、言葉で言い表せられるようなもんではないですね。

亡くなられたときは、ぽっかり穴があいた気分でね。
でも一番感じたのは、この世にはもう、オレを怒ってくれる人やオレが相談出来る人っていうのはいないんだ、っていう、ものすごい喪失感です。
これほど不安になったことはないし、その不安は、今でもあります。この喪失感は、ほんまにデカいですね。

ときどきね、思い出したように、家にあげてもらって仏壇に手を合わさせてもらったり、お墓に行ったりします。
なにかを決断して確信が持てなかったとき、相談しにいくんです。
答えなんて、出ないですけれどもね。でも、そこに行くと、ちょっと安心したりもするんです。

今日は、久しぶりに、お墓に行ってきました。
行くたびに、穴はまだぽっかり開いたままやなあ、と、しみじみ思います。
で、しっかりせえよ!と、怒鳴っている師匠を、懐かしく思い出したりしてます。